■仙台で被災したおじさんと電話で話していると、強い余震を感じた。


「haramiちゃん!逃げろ。逃げるんだぞ!」

と、いつものユーモアあふれる口調とは違う、強い口調で電話が切られた。




■私は東京に住んでいる。


地震の翌日には乾電池はたくさんあり、「なんだまだまだあるじゃーん。」と思っていたのに
3日経ち、震災のひどさが体におちてきた頃には、どこの棚も売り切れ。


「震災の影響のため、次回入荷の予定はございません」

という張り紙にドキドキする。


おりしも、計画停電の始まるとき。
たかだか3時間。
しょせん3時間と思いつつ、


震災の映像にやられ、

連絡のとれない宮城の大事な人を思い、

頻繁にある「こちらは市役所です。停電のお知らせです。断水もあるかもしれません。」の放送に怯える。


よくわからない原発の事故が、どう進むかもわからないし、危険があるのかもわからなく。


終わりが見えない余震。


ガソリンスタンドには車の行列

私の車のガソリンは残り一メモリ。


買占めする人の気持ちわかる。

私も不安だ。と思いつつ、息子ととぼとぼ歩く。
でも、大好きなお菓子も買えるし、東京なんて、たいしたことない、たいしたことないと思いつつ歩く。

■で、すごい気になるので書くんだけど。


ラモスの言ってることとか


川崎麻世の言ってることとか

それに対する世間の対応とか。

まあ、そう思う人もいるだろうなあと思いつつ。


違和感を感じるのだ。


この気持ち、なんていえばいいんだろう。


■「被災地の人達が頑張ってるんだから、みんな頑張ろう。」

「困っている人がいるんだから、買占めなんて最低。」


とか。


「福島や被災地で逃げたくてもガソリンがない人がいるんだから、東京のくせに逃げるの?」

「東京、放射能汚染はないし、安全だっていわれてんのに、煽られてるんじゃないよ。」とか、

「大体、東京は助ける側です。」みたいな。


気になる、気になる。


■いいや、言っちゃえ。


いいじゃん、逃げても。

ていうか外国のお家に帰る人がいても。


買わないと、極度の不安になる人は、買えばいい。


頑張らなくちゃいけないときに、頑張れない人は最低、落ち着かなくいけないときに、落ち着かないなんてみっともない、みたいな風潮を今、感じるのは私だけかしら…

そして、それがすごく居心地が悪い。戦時中みたい。

いろんな人がいて、いろんな行動があるもんだ。だって、人の状況はそれぞれだ。


■いとこは、来月に婚約者を連れて、両親の待つ実家に帰る予定だった。

11日の地震で、いとこのお家は津波に飲み込まれた。


いとこのお父さんはまだ見つからない。


「行方不明届けをだせば、遺体安置所のほうでさがしてもらえるんだ」といって、隣の市に住むおじさんが

雪の中4時間並んで被害届をだしてくれた。


その並んでくれたおじさんも、ガスが止まって震災いらいお風呂に入っていない。被災者だ。


「見つからないね。でも、haramiちゃん、オレはまだあと一週間は探すよ」と言って、毎日ずっと探し続けている。
ガソリンがないので、徒歩で隣の市まで歩いていっている。


■おじさんが人を助けている途中で津波に飲み込まれたのを見た人をみつけた。


それを聞いて泣く私に、親戚のおばさんは、

「あら、haramiちゃん。なに泣いているの?
大体ね、神さまは人を助けたいい人を、このまま波に飲み込まれさすわけないじゃないの。

どこかにいるんだから!」といって、探している。


私は、小さい子どもがいるから、という理由で現地には行かないでいる。
そんな自分もひどく嫌いだ。


■今日、生存者がみつかったと盛んにテレビで報道していた。

嬉しい気持ちと、でも、なんでおじさんじゃないの?という気持ちと、
もし、おじさんが瓦礫の中でギリギリの状態で生きていたら、私、なにやってんだよ!と自責の念が同時にわいてくる。


でも、今日私がしたことは、被災地から遠く離れた暖かいお家のなかで、息子のご飯をつくったことだけだ。


■「逃げる」ことは退却ではなく、ひとつの選択で、力強い行動なんだ、とおじさんに電話を切られた時私は感じた。


選択して、次に進んだだけだ。


被災地に心を寄せる。

今、頑張れる人に頑張ってもらう。
助けに行く人を尊敬し、感謝する。


震災におびえ、別の場所に移った人は、最初に助けに行った人達が疲れてきたら、代わりになれるかもしれない。

被災者の方が、西へ非難してきたときに、力になるかもしれない。


働いてもいず、動く時間とお金のある人は東京にいないほうが、東京電力の節電になり、買い物も減るから

かえって、いいかもしれない。


それでも、家族と離れることが不安だからと、東京にそのまま残るものいいかもしれない。

心が落ち着いたら、自分なりの応援の手をきっと考えるだろう。


震災の時に、子供の手を離してしまって…私だけが生き延びて…とつらそうなお母さんがテレビに映った。
でも、その人に「私は、あなたが生きていて嬉しいですよ。」と伝えたい。


いろいろなやり方があっていいんじゃないのかな

人はみんないろいろだ。


でも、みんなこの震災に心を痛めている。


■息子のアトピーは、ステロイドは効かなかった。

ステロイド依存症の可能性があり、針をして、脱ステロイドをして、肌はきれいになった。


「アトピーの標準治療はステロイドです。使い方を気をつければどの人も安全。」という、この国の

「この放射能レベルは安全です。」という発表をうのみにできるわけがない。


科学的に信頼できるのだろう。
根拠もあるのだろう。

大丈夫な人もいるだろう。


でも、もしかして大丈夫じゃない人もいるかもしれない。


つるつるの肌の子供と、
手首や肘裏が血まみれの子供と、
同じように被曝して、同じように安全なんて、どうしても思えない。


いや、まあ安全だとは思いますけど。
でも…と逡巡する自分がいる。


■買占めする人を責めない。

日本を離れ海外に向かう人を責める気になれない。


被災地の恐ろしさを心にうけるから、行動するのだ。

あなたの大丈夫は私の大丈夫ではない。


被災地へ心を寄せているから、

被災地の事が気になり、それが辛いことと心にはしみているから。


きっと、どの人もこの震災に心を痛めている。

それだけは、信じられる。


人はそれぞれ事情があり、そしてそれぞれ選択をする。

だから、どの人の選択も、尊重したい。


そうしたほうが、私は居心地がいい。
そこに心を寄せると、私の心は温かくなる。
この温かさに寄り添って、明日も一日を過ごす。


私にできることも、きっとある。


おじさんが見つかりますように。